ネーネーズ、ザ・フェーレー、鳩間可奈子のプロデューサー、作詞/作曲家、 琉球音楽協会会長、ライブハウス島唄のオーナー、琉球フェスティバルの プロデューサー等など…と、その活動の幅の広さは、とどまるところを知らない。沖縄音楽界の今後を担う、まぎれもない第一人者である。

敗戦の年、1945年大阪生まれ。父は琉球民謡界に多大な功績と影響を残した、故 知名定繁(ちなていはん)。幼い頃より芝居の子役として舞台に立つ。

‘57年に父、 定繁とともに沖縄へ移る。その後登川誠仁(のぼりかわせいじん)に見出され内弟子となり12歳の時に『スーキカンナー』で華々しくレコードデビュー、天才 少年現れる!!と、一躍注目を浴びる。 嘉手苅林昌(かでかるりんしょう)、普久原恒勇(ふくはらつねお)、照屋林助(てるやりんすけ)などの数多くの沖縄民謡黄金時代の諸先輩方から多くの“ウ チナー”を学ぶ。

日本本土復帰前の‘71年『うんじゅが情ど頼まりる』が空前の大ヒットとなる。

その後、’78年キャニオン・レコードより『赤花』で日本本土デビュー、こ れに収録された『バイバイ沖縄』は音楽界はもとより、多方面へ問題提起をした楽曲として、話題となる。レゲエを島唄にミックスさせたこの曲は、当時の ミュージシャンへも影響を与えた。 2000年6月、サミット沖縄芸能派遣団欧州公演(ロシア、フランス、イタリア)の総合プロデュースを担当し各国で大きな評価を得る。 また、沖縄サミットの県広報曲『語やびら』の作詞/作曲、安室奈美恵の 唄った『Never End』へも三絃で参加。